「お騒がせしてしまって、 誠に申し訳ありません」

ーNGT48山口真帆の謝罪は「おかしい」のかー
 
NGT48の山口真帆が暴行を受けたこと、それに対する対処を運営に求めた
にもかかわらずまともに取り合ってもらえなかったことをSNSで告発した。
その「被害者」山口真帆が「この度は、たくさんお騒がせしてしまって、
誠に申し訳ありません」と公演の場で謝罪したことが大きな話題となった。
「なぜ被害者が謝罪するのか。被害者が謝罪するのはおかしい。」と。
しかし、結論から言うと、私は彼女の謝罪はそんなにおかしいことではないと
思っているし、「おかしい」と批判する資格のある人はそう多くないのでは、
と思っている。
それが日本の文化に由来するものだと考えているからだ。 
 
「この度はお騒がせして申し訳ございませんでした。」
芸能人や企業の謝罪会見でよく聞く言葉だ。
「この度は申し訳ございませんでした。」と言うこともある。
「「この度は」と「申し訳ございませんでした。」の間には「お騒がせして」
という言葉が省略されています。」と言うと「そうだよね」と納得する人は
多いだろう。私はこの言葉を聞くたびに奇妙だと思うし、当事者がこの言葉を
言うことを当然だと思っている人々も奇妙だと思う。
 
なぜなら彼らの言葉によれば、彼らは「お騒がせ」したことに対して
「申し訳ない」と謝罪しているからだ。芸能人が不倫をしたことを、
企業が不祥事を起こしたことに対して「申し訳ない」と謝罪している
わけではない。
山口真帆は「「告発して」申し訳ありませんでした。」とは言っていない。
 
彼らは何故、悪いことをしたことに対する謝罪をしないのか。
彼らは何故、悪いことをしていなくても謝罪を求められるのか。
彼らは一体、何を「お騒がせ」したというのだろうか。
 
「お騒がせして申し訳ございませんでした。」ということは、
「お騒がせ」してさえなければ、何股の不倫でも、ウン十億の損害を
もたらした不祥事でも、「申し訳ございませんでした」と謝罪する必要は
ないということになる。
逆の場合もありうる。実際には不倫をしていなくても、不祥事を起こして
いなくても、「お騒がせ」すれば謝罪を求められる。
山口真帆のように不正を告発しても、「お騒がせ」すれば謝罪を求められる。
 
何を「お騒がせ」したか。
私は「空気」だと考えている。
「空気」とは何か。
山本七平は「『空気』の研究」でこう説明している。
―「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力を
もつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で
社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。―
 
私の考える「空気」の例を挙げてみよう。
・有名人は人々の行動の鑑となるべきだ。
・自分の属する組織に不正はないし、不正を働く者はいない。
・電車はダイヤ通りに運行され、絶対に遅れない。
・ほとんどの人はこうしようと言っている。反対意見は出ずにこのまま
 すんなりと決まるべきだ。
等々。
そうあるべきという(固定)観念、あるいはそうあってほしいという願望が
集団内で共有されているものを「空気」と呼べると思う。
(ちなみにこれらの観念、願望は自分自身では実現できないことを第三者
託して―多くの場合は「押し付けて」―いることが多い。)
 
これらが何らかの理由によって壊れた時を「空気が乱れる」と私は呼ぶ。
この「空気が乱れ」た時こそ、「お騒がせ」した時である。
 
・人々の鑑であるべき有名人なのに不倫をした。
・自分の組織に不正なんかあるはずがないのに、不正があると判明した。
 不正を働いた者がいた。
・電車はダイヤ通りに走っているべきなのに遅れている。
・ほぼ決まりかけの議題に反対意見が出た。
 
このように自らが持っている観念、願望が無残にも砕け散った時、
人々は怒りを覚える。問題やその原因に対してではなく、観念、願望が
打ち砕かれたことに対して怒るのだ。
 
その怒りを晴らそうと、拳を振り上げる。一度振り上げてしまったものは、
何かに下ろさないと気が済まない。しかし観念や願望という「空気」には
実体がない。「やり場のない怒り」になってしまう。
そこで人々は自らの観念、願望を打ち砕いた、「空気」を乱した、
つまり「お騒がせ」した者に謝罪を要求する。
山本七平の言葉で言えば、「「抗空気罪」で社会的に葬る」のだ。
 
この構図はあらゆるところで確認できる。
実際にその芸能人が不倫をしていなくても、囲み取材で
「お騒がせしてすみません」というコメントを引き出そうとする。
店員にクレームを言い、土下座をさせる。
人身事故による遅延は飛び込んだ、接触した人間に原因がある(それがやむを
得ないものだったとしても)はずなのに、飛び込まれた、接触されたという
意味では「被害者」である鉄道会社が「申し訳ございません。」と謝罪する。
人々は「なんで鉄道会社が謝るの?」とは言わない。それどころか駅員に
怒鳴り散らす人間さえいる。
ほぼ決まりかけていた議題に「ちょっと待って」と意見した人を
「KY(「空気」が読めない)だな」だとか、「お前、空気読めよ」と
多数派が寄ってたかって攻撃する。直接攻撃はしなくても、
「ちっ、めんどくさいことを言いやがって」と思っている。
 
 日本人にとって「空気」は絶対に乱れてはならず、乱れた時は落ち度のない
人間でも謝罪させないと気が済まない程大切な存在なのだ。
だから「お騒がせしてすみません」という謝罪の言葉に何の違和感も感じない。
 
山口真帆の件で言えば、
「ファンと繋がっているメンバーなどいない」
「運営は問題があれば速やかに正しく対処する」
といったアイドル自身、アイドルグループの運営、ファン、その他の人々の
観念、願望からなる「空気」をあの告発は大きく揺るがした、「お騒がせ」した
と言える。だから、日本人の一般的な感覚で言えば彼女が謝罪することは
おかしいことではないはずなのだ。
 
「おかしいに決まっている!女性が男性に暴行されたんですよ。彼女がどれだけ
怖い思いをしたかが、男には分からないんです!」と言う人は少なくないだろう。
しかし、その理屈で言えば、もしあの「暴行」が女性が加えたものだったら、
あの謝罪を「おかしい」と思わなかったということになる。
「ただのケンカを大げさに」とでも言っていたのではないだろうか。
本当にそれでいいのだろうか。
 
もし、とある男性アイドルグループのメンバーの1人が、女性に暴行された
という事件が起きて、その被害を受けたメンバーがSNSで告発したとしよう。
被害を受けたメンバーは何らかの形で取材を受けるだろう。
その時「お騒がせしてすみません」と言ったら、あなた方は今回のように
「被害者が謝罪するのはおかしい!」と、ここまで叫んでいただろうか。
 「おかしい!」と言うのなら、暴行を加えたのが男性であろうと女性であろうと、
加えられたのが女性であろうと男性であろうと、被害者が告発したことによって
「「お騒がせして」すみません」と謝罪することがおかしいと言わなければ
ならない。
 
だが、「お騒がせしてすみません」という謝罪が日本人の「空気」を大事にする
文化によるものだとすれば、今回の騒動の中でこの謝罪について批判する
意味はあるのだろうか。というより、我々に批判する資格はあるのだろうか。
 
 
ここまで、「被害者」山口真帆が「お騒がせしてしまって、誠に申し訳ございません」
と謝罪する(させた)のはおかしい!という意見に対して、何が「おかしい」の
だろうかと疑問を持ち、そもそも「お騒がせ」とは何なのかというアプローチ
で考えてみた。
その結果、この謝罪も他でもよく聞く「お騒がせして申し訳ありませんでした」
という謝罪の1つに過ぎず、これは「空気」を大事にする日本人の文化に由来する
のではないかというのが、私の見解である。
 
 
こう書いているうちに一アイドルグループの運営の問題を日本人の問題へ拡大し、
あたかも日本人が悪いと言ってるかのようになってしまったが、
今回の事件で何よりもおかしく、非難すべきはNGT48の運営の対応である。
「お騒がせしてすみません」と被害者に言わせていなかったとしても運営の
対応に問題があることには変わりはないのだから、謝罪について批判するのは
時間の無駄と言ってもいい。
 
悲しいことだが、私は今回の事件に関してこのままうやむやにされるような
気がしている。事件が発覚してから、運営は未だまともな対応をしていないが、
オタクはいつも通りイベントに参加してしまった。
これはあんな事件があって、ろくな対応をしなくてもオタクはお金を落として
くれると運営に教えたようなものだ。AKSが運営しているグループのオタクは
すべてのイベントに参加せずにお金を一切落とさないという実力行使をするべき
だった。経済的に絞めあげるべきだったのではないだろうか。
他のメンバーは、他のグループは関係ないとどうして言えるのか。運営母体が
同じなのに、同じような事態が起こらないとどうして言えるのか。
お金さえ入れば、ネットで、テレビでどれだけ叩かれても痛くはないだろう。
ニュースを見て「被害者が謝罪するのはおかしい!」と叫んでいた「正義感
あふれる善良な人々」も今ではとっくに忘れて、やれ大坂なおみだ、やれ嵐だ、
と言っているんだろう。
このままオタクがイベントに今まで通り参加し、他の人たちが忘れてくれれば
わざわざ自らの落ち度をさらけ出す必要はなくなる。
そうこうしている間にいつもの「空気」に戻り、真相は究明されずに終わって
しまうのではないだろうか。